母の父親、つまり私の祖父が戦死したのは、昭和19年の夏であった。
肺が悪く、一度徴兵検査で不可となったのであるが、当時は軍人にならないと「非国民」とされた時代である。家族は責めさいなまれ、同じく「非国民」のレッテルを貼られることも当たり前の時代でもあった。祖父は、それにより家族が「非国民」とされ、村八分とされる事を不憫であると思ったのであろう。徴兵検査を再度受け、日本も戦局が厳しくなったことも相まって、可を得たのであった。
まもなくして、輸送船が小笠原沖にて魚雷攻撃を受け、沈没し祖父は遺体も上がることもなく、「戦死」の知らせを受けた祖母の気持ちは推し量る術もない。祖母と母と妹、つまり叔母であるが、電車の線路に佇み、死を考えたという。
子供ながらに「死」を意識した母は、泣きながら死を逃れたという。線路の脇で3人は泣き崩れた。その後の母や祖母や叔母が辿った想像を絶する生活は、戦後の混乱した時代背景を物語るように苦しみに満ちていた。
祖母は今川焼を焼き、闇市で売り豆腐を作り町内を売り歩いて二人の子供を育てたという。
先日、母が「お父さんが生きていたらどうなっていたんだろう」と言っていた。
私はすかさず「お爺ちゃんが生きていたら、苦しい生活はなかったかも知れないけど、お父さんと会うこと無かっただろうし、僕も生まれることはなかった」と言ったことを覚えている。「つまり、お母さんとお父さんとの出会いが無ければ、僕はお母さんと会うことはなかった」と続け、私の父と母との出会いは、私との出会いでもある。
本当の意味で、これが「絆」なのだろうと思う。絆を語る上で最も重要なのは、繋がりが最も深く簡単には切れない糸のようなもので守られた世界観なのだろうと思わずにはいられない。