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執筆者の写真HIROKI OSADA

赤紙、そして母の想い。


母は昭和16年にこの世に生を受けた。

第二次世界大戦の末期、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所で、ユダヤ人とソ連兵捕虜の毒ガス処刑が始まったその年、彼女は産まれたことになる。

昭和20年の終戦の時までに様々なことを経験することになった筈だ。母は福岡大空襲を覚えていると話す。天神方面の空が真っ赤に染まって、綺麗だったと話していた。子供ながら戦争の恐怖から逃れたいと思う一方、現実的にはかつての田舎である場所から見る都会の幻想的な赤い空はまさに幻のように綺麗に見えたのかも知れない。

私の祖父、つまり母の父は一度、召集令状いわゆる「赤紙」を受け取り、徴兵検査を受け病気の帰来があることが分かり、一度は兵隊の道を断たれる訳だが、「非国民」とされる事を恐れ再度徴兵検査を受け、戦争末期で兵隊の数も激減していたことも相まって、兵隊として戦場に赴くことになる。家族を残し、祖父はどのような想いを抱き戦地へ向かったのか、今ではそれを知る由もない。

その後間もなくして、小笠原沖にて戦艦乗船中に魚雷攻撃を受け、戦死してしまったとの訃報を受けた祖母の思いは計り知れないものがある。母には妹がいる。幼い子を二人連れ、一度、電車の線路に佇んで死を選択したこともあった。母は幼いながら「死」を意識し、泣きながら「死にたくない」と祖母の手を引っ張ったという。

親子三人線路の脇で泣き崩れたと言いながら、目を潤ませていた。

その後の事を、母は多く語ろうとしなかったが、戦後の混乱の中で祖母は豆腐を作り、売り歩き、また時には饅頭を作って闇市で売ったこともあったという。

その後、三人が辿った道は言葉では語りつくせない程、険しいものであった事だろう。

最後に母は「戦争はそんなもんだよ」と言って口を閉じた。目元には何かが滲んでみえた。


戦争は何も残さない。私たちは今、第三次世界大戦勃発の危機的状況の中にいる。

しかし、私の声は世界に届かない。叫んでも、その言葉は打ち消されてしまうだろう。同じような惨劇を繰り返さない為に私だけではなく、我々ができることは何だろうか。

まずは一人一人が皆立ち止まって、何でもいいから考える必要があるのではないだろうか。

そして、やがて同じように「赤紙」が送られてこないとも限らないこの状況下に於いて、今一度、いや改めて「平和」について考え、「無意味」なことを止め、手を取り合って叫び続ける必要があるのかも知れない。

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