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父との約束。



父は短気ではあったが、思いやりの深い人物であった。横の繋がりも多く、人々からは尊敬される存在であったと思う。私はそう思っていた。

桜の舞い散る春の日差しが柔らかな午後であった。父はその5~6年前から腎不全を患い、人工透析をおこなう日々を過ごしていたが、いつも辛そうな顔をするようになった。

「自業自得だ」そう洩らすようになった。少し鬱ぽくなり、一日中布団に包まり食卓に顔を見せることも少なくなってしまった。腎不全の原因は「お酒」だと言われていた。接待や交流の為には致し方がなかったとはいえ、その内日常的にアルコールを摂取するようになり、痛風を患い徐々に体調に変化が訪れ始めた。仕事の疲れや悩みを抱え、それをアルコールで誤魔化すようになると、痛風は悪化しトイレには這っていかなければならない程にまでなった。元々、病院嫌いな父であった為に痛風が悪化しても、薬を飲むこともなくまた病院へ行くこともなかった。体調に変化が起こり始めたのはそれから間もなくしての事である。

食事を摂らず、一日中アルコール漬けの日々を送り体重も激減していた事で母が無理矢理近くの総合病院を受診させた際、既に手遅れの状態であった。

何日も入院し、時折、癲癇の発作を起こし体中に排出できない水分が溜まり始め、危篤状態は日常的になっていった。

母は病院に泊まり込み、家を空ける日々が続いた。

奇跡的に透析を受けるだけで事足りるようにはなったが、自己を恥じ不安感と日々戦うようになった時の父の背中はいつも小さく見えた。

そして、父は透析を止める覚悟をした。それは、父にとって人生というモノの中で最大の決断であったことは言うまでもない。自宅には透析病院の院長が説得に来たが、笑顔で「もういいんです」と呟く父の横顔が何故か晴れ晴れとしていたことは、今でも覚えている。

きっと私が知っている寡黙な父が浮かべた最高の笑顔であった。

それから2週間後に父は旅立った。自宅で死を迎えることを望んでいたことも家族に看取られ最期の瞬間を迎えられることを誇りに思っていたことであろう。

こうして、私は父が歩んだ経営コンサルタントという道を迷うことなく選択した。

父の死から3年後の夏の暑い日だった。母が一通の手紙を私に手渡してくれた。

そこには乱れた父の文字で、「今まで悪かった。お母さんを幸せにしてあげてくれ」という短文が書き残されていた。

私は込み上げてくるモノを吐き出すかのように止まらない涙を抑えることができなかった。これが、父と交わす最期の「約束」であったことは間違いない。

今、母は82歳を迎え、体の痛みを押し殺しながら生活を送っている。私は本当に父と交わした「最期の約束」を守れているのだろうか?日々そう思いつつ過ごす毎日を「お酒」共に送っている。

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