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選挙と民主主義の意義

個人的な意見に相違ないが、私の考えを述べてみたいと思う。

7月8日午後5時3分 安部晋三元内閣総理大臣の死亡が確認された。

各異論はあるだろうが、凶行に及んだ山上徹也容疑者(41歳)は、この襲撃に政治的意図はないと話している。政治的観点から、安倍晋三氏の遺した政策は「新・三本の矢」と言われ、「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」からなる成長と分配の好循環を目指したイズムを成すものであった。

このイズムを「アベノミクス」と言われる一連の改革を示すわけだが、歴代首相と比較しても、異例な人物であったような気がする。

エンターテインメント性に優れ、また時には外交的なパフォーマンスに長けていたような気さえする。そうした異例な政治家が、正に異例な形で蛮行に倒れたことは、無念の一言に尽きる。その蛮行の背景には独特な宗教的思想もあったようであるが、選挙戦の最中で起きたこの行動は民主主義への挑戦と捉えることもできる。

海外メディアが「暗殺」と伝えているが、山上容疑者をテロリストと見た場合、この行為は確かに「暗殺」であるのかもしれない。しかしながら、国内メディアと海外メディアとの温度差は明らかに違う。それ以前に、まず視点が違うと言い換えてもよく、国内に於いては、安倍晋三氏への思い入れが強い事もあり、個人的悲壮感に終始留まっており、事件の背景にある山上容疑者の思想的要素を明確に提示しきれてはいない。問題は、なぜ安倍晋三氏が殺害されたのかということではなく、なぜ山上容疑者が安部晋三氏を殺害しなければいけなかったのかということではないだろうか?

表面的な要素が集積される中、海外メディアが「暗殺」と言っている背景には、バックグラウンドに「選挙」という大きなイベントが介在しているからであり、日本の政治的な思想が混迷するのではないか?という論点に立ち返ったものであり、正に幾度もテロの脅威に触れてきた欧米諸国からこの事件は、政治的思想への挑戦であると考えられても当然のことである。こうした背景には、日本と海外との政治への関心度が違うということもあるのではないだろうか?

日本は政治への関心が低く、自らが国政の主であるということを認識できずにいる。当然のことであるが、国民の代表であるとされる政治家の一部は汚職に塗れ、政治家というだけで天狗になり、国民の感情を逆なでしている。

欧米では、国民が自らのリーダーを選ぶという思考が強く、YES・NOを示すことに何の躊躇いも持っていない。こうしたことから、日本と海外との温度差は益々広がっているのかも知れない。

安部氏が殺害された背景は未だ闇の中ではあるが、今回の選挙を見ればある意味、自民党の弔い合戦である。戦後より継続されてきた自由民主党の一党独裁政権は今後、どうなって行くのだろう?本当の改革とは何だろう?本当の政治とはどのような形を成すものであろう?

我々は、安倍晋三氏の死を受け止めた際、果たして何を思うことができるのだろうか。

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