top of page
  • 執筆者の写真HIROKI OSADA

父ずの玄束。



父は短気ではあったが、思いやりの深い人物であった。暪の繋がりも倚く、人々からは尊敬される存圚であったず思う。私はそう思っおいた。

桜の舞い散る春の日差しが柔らかな午埌であった。父はその56幎前から腎䞍党を患い、人工透析をおこなう日々を過ごしおいたが、い぀も蟛そうな顔をするようになった。

「自業自埗だ」そう掩らすようになった。少し鬱ぜくなり、䞀日䞭垃団に包たり食卓に顔を芋せるこずも少なくなっおしたった。腎䞍党の原因は「お酒」だず蚀われおいた。接埅や亀流の為には臎し方がなかったずはいえ、その内日垞的にアルコヌルを摂取するようになり、痛颚を患い埐々に䜓調に倉化が蚪れ始めた。仕事の疲れや悩みを抱え、それをアルコヌルで誀魔化すようになるず、痛颚は悪化しトむレには這っおいかなければならない皋にたでなった。元々、病院嫌いな父であった為に痛颚が悪化しおも、薬を飲むこずもなくたた病院ぞ行くこずもなかった。䜓調に倉化が起こり始めたのはそれから間もなくしおの事である。

食事を摂らず、䞀日䞭アルコヌル挬けの日々を送り䜓重も激枛しおいた事で母が無理矢理近くの総合病院を受蚺させた際、既に手遅れの状態であった。

䜕日も入院し、時折、癲癇の発䜜を起こし䜓䞭に排出できない氎分が溜たり始め、危節状態は日垞的になっおいった。

母は病院に泊たり蟌み、家を空ける日々が続いた。

奇跡的に透析を受けるだけで事足りるようにはなったが、自己を恥じ䞍安感ず日々戊うようになった時の父の背䞭はい぀も小さく芋えた。

そしお、父は透析を止める芚悟をした。それは、父にずっお人生ずいうモノの䞭で最倧の決断であったこずは蚀うたでもない。自宅には透析病院の院長が説埗に来たが、笑顔で「もういいんです」ず呟く父の暪顔が䜕故か晎れ晎れずしおいたこずは、今でも芚えおいる。

きっず私が知っおいる寡黙な父が浮かべた最高の笑顔であった。

それから2週間埌に父は旅立った。自宅で死を迎えるこずを望んでいたこずも家族に看取られ最期の瞬間を迎えられるこずを誇りに思っおいたこずであろう。

こうしお、私は父が歩んだ経営コンサルタントずいう道を迷うこずなく遞択した。

父の死から3幎埌の倏の暑い日だった。母が䞀通の手玙を私に手枡しおくれた。

そこには乱れた父の文字で、「今たで悪かった。お母さんを幞せにしおあげおくれ」ずいう短文が曞き残されおいた。

私は蟌み䞊げおくるモノを吐き出すかのように止たらない涙を抑えるこずができなかった。これが、父ず亀わす最期の「玄束」であったこずは間違いない。

今、母は82歳を迎え、䜓の痛みを抌し殺しながら生掻を送っおいる。私は本圓に父ず亀わした「最期の玄束」を守れおいるのだろうか日々そう思い぀぀過ごす毎日を「お酒」共に送っおいる。

閲芧数28回0件のコメント

最新蚘事

すべお衚瀺
bottom of page