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執筆者の写真HIROKI OSADA

贖罪と想い



ここに一冊の日記がある。

タイトルは「我が人生の記」である。父が遺したものだ。

第一文、冒頭には「人生は贖罪に満ちている」とあった。

「贖罪」つまりは、過去に自分が犯してしまった罪や過失を自分自身の行動によって、償うことである。そしてこれ以外にも、キリスト教の教えとしての意味も持っている。これは神の子であるキリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義である。これはキリスト教の教えの中心ともなるものである。またユダヤ教では「贖罪の日」というのが昔あり、ユダヤ暦の正月10日がその日とされていた。現在は「悔い改めと神のゆるしを求める祈りの日」となっている。

 つまりは、父は十字架を背負って生きてきたのかも知れない。

時に罪であり、家族への絆であったりと…果たして、絆が「罪」と合致するのかは別として、父が家族の「絆」をある瞬間、断ち切ったのは事実である。

それが何であったのかは、ここで語ることはないであろうが、私は父の遺した「罪」を醜いと思って生きてきた。そこは、家族と共にあるはずの父としての「罪」なのかも知れない。私はその罪を一生許すことはないであろう。しかし、思い起こせばという意味である。

 父は24年前の春、この贖罪を背負ってこの世から旅立っていった。

罪とは人を苦しめ苛み、そして未来を奪う力を有している。

私の中の父には、良い思い出しか今は残っていない。人が遺した死の意味とはそういうものであると確信している。しかし、その裏面には罪に薄汚れた意識の果てが存在しているのかも知れない。これが、キリストの教えであるというのであれば、余りに切ないではなかろうか?今、私も贖罪を背負って生きている…そういっても過言ではないだろう。


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