(出典:現代の作曲家)
「武満徹」「伊福部昭」「林光」「吉松隆」など思いつくところ以外だけでも多くの作曲家がいる。中でも私にとって「吉松隆」は衝撃的であった。
かつて、吉松氏の「朱鷺への哀歌」という曲をラジオで聴いた瞬間、鳥肌が立ったことを今でも覚えている。日本に於ける朱鷺は絶滅している。そのレクイエムとして彼の書いた曲は、前衛音楽の中でも際立って変容していると言っても過言ではない。
吉松氏の音楽は、前衛音楽とされる音楽の中でも、もっとも聴きやすい。
ラウタバーラ氏の「Journey」という曲もまた秀逸ではあるが、映画音楽に傾倒しているという気がした。
しかし、吉松氏の楽曲は新しい試みを行い、ノスタルジックな雰囲気を漂わせる何かが内包されているのである。それは、メロディがはっきりしていて、耳障りがいいということであり、そのメロディアスな部分の中に垣間見える試行された前衛的な部分が共存しているのだといってもいいのかもしれない。
吉松氏は「朱鷺への哀歌」以降、鳥をテーマにした曲を書き続けている。
そこには、吉松氏の想いが込められているといってもいいのではないだろうか。
多くの現代音楽作曲家は、映画音楽などにも参加していることからいっても、その複合的な感情の発露は、クラシック音楽に引けを取らない発展的なメロディを形成しているのである。
私事で恐縮ではあるが、作曲をしている。しかし、何れにしても「前衛音楽」に憧れを持ち、見よう見まねで電子楽器とオーケストラを組み合わせて作った曲を聴き返しても、それは雑然としている雑音に近いものとなってしまう。
私がそういう曲を書いてしまう理由は、学問としての作曲法を学んでいないからに他ならない。音楽を学問と考えた場合、そこには間違いなく私には困難な壁が立ちはだかっている。
それは、決して私などが越えられれる壁ではない。
「ピアノとオーケストラによる”レクイエム”」という楽曲をかつて書いたことがあるが、どこにでも転がっている単なる明確なメロディーを持っている陳腐な要素で形成されたポピュラーミュージックになってしまう。
間宮芳生という作曲家の作品の中に、「火垂るの墓」というアニメ映画の曲がある。
実に郷愁を誘うメロディーが組み込まれていた。戦後の貧しい時代を描いたこの作品には合致していた。間宮氏は間違いなく前衛音楽の作曲家であるにも関わらず、こうした郷愁のあるメロディーを生む。これは、学問としての基礎があっての見事な変容である。
これが、私の考える大きな壁である。
いつの日か、この謎めき「現代音楽」の要素を紐解く為に、見様見真似で楽典を読み漁ってみようと思う。しかし、きっと私はその壁を越える事はできないだろう。