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尾道と大林宣彦

更新日:2023年2月14日


私にとっての人生観は、大林宣彦監督の映画に繋がっている。

さりとて監督との接点は個人的にない。初めて繋がったと感じたのは1990年公開の「ふたり」であった。原作は赤川次郎氏の小説である。映画の設定では、虚像として姉が妹を見守るというものであるが、原作では妹の耳に姉の声が聞こえるというものであった。

設定はどうあれ、内容的には酷似していることに変わりはない。

「酷似」と表したのは、その内容が脚色してあるからだ。脚色というものは原作が存在するどの映画でも当たり前に成されているのだが、脚本の執筆に関わってもいる大林宣彦独自の人生観がそこには介在していると言わざるを得ない。

生涯、彼の愛した「尾道」という古めかしい町を私は一度訪れたことがあるのだが、魚くさく人馴っこい人々の笑顔が印象的であったことを今だに覚えている。

大林宣彦の映画には「尾道三部作」「新尾道三部作」というものがあり、「ふたり」はその「新尾道三部作」に数えられている作品でもある。

彼は、尾道の風情を伝えるだけではなく、幻想の中に存在しているもう一つの「尾道」を描いている。それは、彼の独創的な感情の下に生まれたものではあるのだろうが、視聴者はそこに本当の意味での「尾道」を感じている。

尾道を訪れる観光客の多くが、その幻想を思い描いているといっても過言ではない。

私もその一人であった。志賀直哉や林芙美子の描いた「尾道」は現実的なものであり、大林宣彦はその想いを捻じ曲げて、そこに幻を与えいい意味で踏みにじった監督の一人なのかも知れない。

私にとって、いや「大林映画」をこよなく愛する人々は声を揃えて、言うことであろう。そこに真の「尾道」は存在しないと。良いことではないのかも知れないが、現在は「大林映画」を観光の糧している風潮が多いと感じることもあるが、それは置いておいたとしても、大林宣彦の死によって、取り残された「幻の尾道」は今や映画の中にしか存在していないという気がしてならない。

大林宣彦はその生涯「幻」を追い続けた映画監督の一人であると言っても過言ではない。

今はもう「新たな尾道三部作」を観ることは出来ないのかもしれないが、私の中に残った「幻の尾道」は今でも心に染み渡っている。そこに生涯を捧げた大林宣彦の想いを感じざるを得ない。

再び、私は「ふたり」を観て「幻の尾道」を訪ねてみようと思う。そこに彼の「愛」を感じながら、そして哀悼の意を込めた感情を抱きつつ。

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